2012年4月アーカイブ

延命措置は途中で止められない

 

 先ほど人の死にまつわる定義をご紹介しましたが、「尊厳死」や「平穏死」とは、一般には延命措置などを「拒否する」ことをいいます。しかし、自力呼吸できないことがわかっていながら、いま着けられている人工呼吸器を「取り外す」ことは、「安楽死」に該当すると思われます。「安楽死」は日本では認められていません。極めて限定的に認めた判例もありますが、その判例で認めた要件に該当するかどうかは、裁判まで経なければわかりません。

 したがって、たとえ家族に懇願されても、死ぬことがわかっている中で人工呼吸器を取り外せば、担当した医師は少なくとも刑事事件に発展する覚悟は背負わなければなりません。

 

 つまり、一度延命措置を開始してしまうと、誰も止められなくなるのです。開始するときは、焦っていたし、考える時間もなかった・・でも、今となってみれば、延命措置を始めたのは間違いだったのか・・と家族や医師が考えても戻ることができなくなります。

 

 尊厳死宣言書は、遺言などと比べると認知度が低いと思います。しかし、生命の根源に関わる問題よりも、遺産の分け方のほうが大事なはずはないのです。

 極端な言い方ですが、家族の仲がよければ遺言などはいりません。しかし、尊厳死宣言書は、あなたを含めた家族が普通に仲良くしているか、それ以上の絆があるなら必ず書いておくべきなのです。自分の終末期には、家族に負担をかけたくないという気持ちは多くの人がお持ちなのですが、そのためのちょっとした準備をした人が少ないために、多くの人が家族に様々な負担をかけてしまっているのです。

家族にどんな負担がかかるのか?

 

 多くの人がある程度の年齢になると、自分が死ぬときのことを考えます。自分の終末期について、希望などを家族に話しておく人も少なくありません。

 

 ご本人にとっては、とても大切な話なのですが、やっぱり縁起はよくないことなので、聞かされた家族は「そんなこと言わないでよ?」と冗談交じりの返事をして、それ以上この話を長引かせたくないという雰囲気になります。

 ご本人からすると、ちゃんと理解してくれたのか少し不安が残りますが、これ以上雰囲気も悪くしたくないので、「とりあえずは家族に伝えたんだから・・」と自分を納得させます。

 

 そのまま時間は過ぎ、ついにその時が来るのです。突然の病気で倒れたご本人は、すでに意思表示もできません。家族がお医者さんに呼ばれて説明を受けたうえで、選択を迫られます。

 「命を救うには、いくつかの方法がありますが、どの方法も救える可能性はゼロではありませんが、残念ながら極めて低いと思います。しかし、人工呼吸器をつけて繋ぎ止め、状態が好転するなら手術も可能かもしれません・・・もちろん、人工呼吸器をつけても状態が好転する可能性も極めて低いのですが、私どもから見ると、この方針が最善と思われます。こうした方針でよろしいですか?」

 人工呼吸器をつけるか否かは、至急の判断のため家族にはゆっくり考える時間がありません。それに、多くの家族は初めて会ったお医者さんに、提案された方針に従うとどうなるのか、本当に家族が望む形に戻れるのか、細かいことまでちゃんと聞けないことも多いのです。(もちろん、お医者さんにはちゃんと聞けば、ちゃんと教えてはくれます)

 

 家族「本人は、延命措置はやめてほしいと言っていました。」

 医師「そうですか・・それでは、人工呼吸器もやめておきますか?」

 家族「人工呼吸器をつけても可能性はないんですよね・・」

 医師「ご本人の年齢や体力も考えると極めて低いということは間違いないと思います。

     しかし、可能性がないとは申し上げられません。私たちとしては、最期まで最善

     を尽くしたいと考えています。あとは、ご家族のご判断によります。」

 

 お医者さんにかつてご本人が家族に言った言葉を伝えても、結局は家族が判断せざるを得なくなります。

 

 お医者さんは、できるかぎりの手を尽くそうと提案します。それが、医師の役割だからです。

 お医者さんの話を聞いた家族は、「本人は延命措置はやめてほしいと言ってたし、私だって本人の気持ちには沿いたい・・でも、あの言葉は本心だったのか・・それに、他の家族はどう思うんだろう・・」と悩むことになります。

 ご本人の想い、お医者さんのアドバイス、それを聞いた家族の気持ちや他の家族の感情まで考えて判断しなければなりません。

 かつて、ご本人はこのような事態を想定できないまま、ただ「延命措置はやめてほしい」とだけ家族に伝えました。しかし、そのことがかえって家族に極めて大きな葛藤を与えることになるのです。

 

 医療の選択、まして生死に関わる医療の選択はやはりご本人がすべきものです。もちろんその時点でご本人が意思表示できれば問題はないのですが、それが望めない事態のほうが多いのです。

 せめて文書でご本人の意思を残しておいてくれたら、家族はそれを渡すだけの役割しかありません。さらに、文書を渡すだけなら、家族でなくてもできることなのです。いずれにしても、文書を通じてあくまでご本人とお医者さんが決めることになります。

 

 もし、尊厳死の希望を叶えたいのであれば、絶対に中途半端な方法をとってはいけません。どんなに面倒でも、何らかの文書を残しておかなければ、家族の負担は大きく深いものになってしまいます。

「とりあえず」の延命措置の結末

 

 一概に「延命措置」といっても、その定義が明確にあるわけではありません。一般には、「人工呼吸」や「人工栄養」などが当たりますが、厳密に考えれば「人工透析」も延命措置と言えるかもしれません。

 

 いずれにしても、「死期が近く、完治は見込めず、ただ延命を目的とした医療行為」と考えられていますが、この延命措置を一度始めると止めるのは極めて難しいということだけは知っておかなくてはなりません。

 

「安楽死」「脳死」「植物状態」「尊厳死」「平穏死」

 

 あなたは、これらの人の死に関する概念の違いがわかりますか?まずは、簡単にご紹介したいと思います。

 

「安楽死」

 一般には薬物などによって医師が積極的に患者を死に至らしめる行為と思われていますが、法理論上は、「延命措置の中止」も含まれると考えられています。


「脳死」

 肺や心臓の機能は停止していないが、脳の機能だけが停止した状態です。日本では「臓器移植法」に基づく脳死判定がされたときだけ、脳死を人の死と認めています。


「植物状態」

 「脳死」は脳のすべての機能が停止し、人工呼吸器などがなければ呼吸も維持できない状態ですが、「植物状態」の場合は、脳幹の機能が残っていて、自発呼吸ができる状態です。


「尊厳死」

 一般には、人工呼吸器などの延命措置を拒否することをいいます。ここで重要なのは、延命措置が取られる前に拒否しなければならないということです。


「平穏死」

 最近話題になっている考え方です。「尊厳死」の考え方に「胃ろう」などの経管栄養の拒否も選択するものです。


 ご自分の最期を自ら決めたいと思っている方は、最低限この程度の違いは理解していただく必要があります。この違いを知っておかないとご自身が後悔するだけでなく、家族も苦しめることになるのです。なぜでしょうか?後ほど触れますが、ご自分でも考えてみてください。

増え続ける同意書

 

 入院の際に、家族やご本人が記入や署名を求められる書類は増える一方です。入院のための同意書や身元保証書、診療計画書、身体拘束に関する同意書など病院によって様々です。また、少しでもリスクがあれば検査のたびに同意書が必要です。

 

 日本では、ある時期から「医療ミス」に対する世間の目が急速に厳しくなりました。そのため、病院も事故やミスによる訴訟から病院やそこで働く関係者を守るため、各種の書類を準備せざるをえなくなりました。

 

 延命措置に関する同意書も、その延長線上にあります。ひと昔前なら、家族の意向よりも医師の判断が優先され、情報や知識を持たない家族は、事実上「先生」の言葉に従うしかありませんでした。と同時に倫理上の責任も、家族は負担せずに済んでいたともいえます。

 しかし、現在は家族も医療に関する情報が簡単に入手できます。(その情報が正しいかどうかは別の問題ですが・・)

 そのため、医師の見識と倫理だけに頼っていた延命の判断が、家族に移ることになりました。

 

 ところが、実際は家族のサイドは聞きかじりの情報はあっても、自分の大切な人の命の選択をゆだねられる覚悟までは持っていないことがほとんどです。

 突然、医師から「延命措置はどうしますか?実施しなければ2週間で亡くなります。」と言われ、なおかつ返事の期限が明日までという状況で、果たして納得できる答えを見つけることができるのでしょうか?

 

 結果、多くの方が「とりあえず・・」という気持ちで、なんとなく延命措置に同意することになります。自らの決断で家族の命を奪ってしまうような選択は、そう簡単にはできません。

 病院は、延命措置に関する医学的な説明はしてくれます。延命措置を選択しなかった場合の葛藤も直感的に感じることもできます。しかし、「とりあえず」延命措置を選択した後の、家族の葛藤まで説明してくれた病院には巡り会ったことがありませんし、医療従事者にそこまで求めるのも酷な話だと思います。

10人のうち8人は病院で最期を迎える

 

 これからお伝えする尊厳死宣言書は、主に以下の二つの意思表示から構成されます。

 1.ムダな延命措置をしないでほしい。

 2.でも、苦痛を和らげる措置は最大限やってほしい。

 

 どちらも、原則として「医療」に関する要望であり、最期を迎える場所が病院でなければ考える必要のないことともいえます。

 

 しかし、現在、日本で亡くなる人の約80%が病院で最期を迎えています。こうした現状を少しでも改善しようと、ナーシングホームや在宅医療に尽力する医療関係者もいるのですが、なかなか大きな変化にはつながっていません。

 病院で亡くなる人の数が大きく減らないと予想されるにも関わらず、多くの方はご自分が病院で終末期を迎えたときどうなるか・・ということを知りません。

 

 まずは病院で行われている終末期患者への一般的な対応をご紹介します。

 私は仕事柄、病院や老人ホームにおじゃまする機会が多くあります。救急病院、療養型病床、精神病院、特別養護老人ホーム、有料老人ホームなど様々な所へ行かせていただいております。

 必然的に人の死と向き合うことになりますが、こうした現場では、どんな人でもそこに存在する意味があることを教えられます。また、自分自身がいかに小さく無力な存在で、生命の真理に基づいて生かされているだけなのだと気付かされる場面でもあります。

 

 哲学的にも、宗教的にも謙虚な気持ちを取り戻せる仕事なのですが、どうしても自分の中で咀嚼できない現実がひとつだけあります。

 

 それが「胃ろう」です。

 

 私は、ほとんど動くことも目を開けることもない「胃ろう」患者の方と、何時間も黙って向き合ったことがあります。その方の存在は、語らずとも私に私に様々なことを教えてくれたり、考えさせてくれる「意味のある存在」ではあります。

 

 しかし、ご本人にとってこの状態はどのような意味があるのか・・・

 

 私は、「胃ろう」も延命措置の一部分と考えていますが、医療や法律の世界ではその見解も分かれています。しかし、少なくとも私の中では、「胃ろう」も含めた延命措置の選択だけはできるようにしなければならないという結論に至っています。

 

 「尊厳死」という考え方が少しずつ広がっている一方で、医療界・法曹界の一部には、人工呼吸器などいわゆる既存の延命措置を拒否することも許すべきではないという意見すら、いまだにあるのも現実です。

 したがって、「胃ろう」を拒否する選択もありうるとする私の考え方には、各方面からの反発も予想されます。しかし、医療や福祉の現場を客観的に見てきた者として、多くの人が最期に通る場所の現状を報告しておくことは、この仕事を業とする以上、最低限の務めと考えています。